本文抜粋

大学生の頃、
母親の仕事の都合で、
古い団地に半年ほど住んでいたことがある。

昭和40年代に建てられた5階建ての団地だった。

外壁は雨が降るたび黒ずみ、
階段には細かいヒビが入っていた。

エレベーターはない。


踊り場には、
誰のものか分からない植木鉢や、
錆びた子供用自転車が何年も放置されていた。

夕方になると、
どこかの部屋から味噌汁の匂いが漂ってきて、
ブラウン管テレビの音が壁越しに聞こえる。

でも夜になると、
急に静かになる。

生活音だけが、
やけにはっきり聞こえる団地だった。
ChatGPT Image 2026年5月23日 22_07_58


俺たちの部屋は4階。

引っ越して数日後、
母親がこんなことを言った。

「毎晩、同じ時間に誰か階段上ってこない?」

俺も気づいていた。

毎晩11時を少し過ぎた頃、
決まって階段を上がってくる音がする。

カン……
カン……
カン……

革靴みたいな硬い音。

ゆっくり。

一定の速さで。

最初は誰か帰宅してるだけだと思った。

でも、
音は必ず俺たちの部屋の前で止まる。

ピタッと。

それから数秒。

誰かが立っている気配だけがある。

チャイムは鳴らない。

ノックもしない。

そのあと、
また同じ速度で下へ降りていく。

毎日それの繰り返しだった。

古い団地だし、
変な住人でもいるんだろう。

最初はその程度に考えていた。

ただ、
少しおかしいことがあった。

音が止まる時間が、
日ごとに長くなっていった。

最初は数秒。

それが10秒になり、
30秒になり、
気づけば1分近く、
部屋の前で止まっているようになった。

その間、
気配だけがある。

ある夜、
母親が小声で言った。

「今日、
管理人さんに変なこと言われた」

“11時以降、
廊下は見ないでくださいね”

そう言われたらしい。

理由を聞いても、
管理人は曖昧に笑うだけだったという。

その日の夜、
俺は逆に気になってしまった。

時計が11時を回る。

しばらくして、
いつもの音が聞こえ始めた。

カン……
カン……
カン……

階段を上がってくる。

ゆっくり。

一定の速さで。

そして、
部屋の前で止まった。

沈黙。

俺は玄関まで行き、
ドアスコープを覗いた。

薄暗い廊下。

古い蛍光灯が、
ジジ……と音を立てながら、
不規則に点滅していた。

最初、
誰もいないように見えた。

でも、
階段の踊り場に男が立っていた。

茶色いスーツ。

昭和のサラリーマンみたいな格好。

こっちを見ているわけじゃない。

ただ、
階段の方を向いたまま、
じっと立っていた。

その瞬間、
男の顔が、
少しだけこちらを向いた気がした。

俺は反射的にスコープから離れた。

同時に、
玄関の向こうで足音が止まった。

完全な沈黙。

それまで毎晩、
止まったあとは下へ降りていた。

でも、
その日は違った。

気配だけが、
ずっとドアの前にあった。

母親も異変に気づいていて、
部屋の奥で黙っていた。

結局その日は、
下へ降りていく音を聞かなかった。

次の日、
母親が管理人に聞きに行った。

管理人はしばらく黙ったあと、
小さな声で言ったらしい。

「……見たんですね」

それ以上は、
あまり話したがらなかったという。

ただ、
最後に変なことを言ったらしい。

「あれ、
4号棟じゃないんですよ」

意味が分からなかった。

俺たちが住んでいたのは4号棟だった。

じゃあ、
なぜ毎晩こっちへ来るのか。

結局、
その理由は分からないままだった。

その月のうちに、
俺たちは団地を出た。

引っ越しの日、
隣の部屋のおばあさんが、
荷物を運ぶ俺に声をかけてきた。

「あら、出ていくの」

俺が曖昧に笑うと、
おばあさんは4階の階段を見ながら言った。

「見ちゃったんでしょ」

否定できなかった。

するとおばあさんは、
まるで天気の話でもするみたいに言った。

「見た人のところ、
止まる時間が長くなるのよ」

背筋が冷えた。

「そのうち、
階段を降りなくなるからねぇ」




食い止めて